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Vol.33 トゥール・スレン虐殺博物館

3月29日
プノンペン10日目

この日はプノンペン市内にあるトゥール・スレン虐殺博物館へと歩いて行った。

僕は以前カンボジアのポルポト政権の大虐殺という言葉は聞いたことがあったけど、

それが一体どんなものなのかは全く知らなかった。

まず僕が調べていて一番最初に驚いたのは、

大虐殺が最初にあったトゥール・スレン虐殺博物館の場所について。

歩いて行ったという風に書いたけど、僕が泊まっていたCapitol1から歩いて10分ぐらいの所にある。

昨日行ったオリンピックマーケットより近くに。

もともと学校だった建物をそれほど改造もせずに虐殺の場所として使っていた。

だから今でも見た目は完全に学校。

それがまた怖かった。

まず、入口から入ると看板が立っていた。

これは尋問中の保安規則10ヶ条について

1:質問された事にそのまま答えよ。話をそらしてはならない。

2:何かと口実を作って事実を隠蔽してはならない。尋問係を試す事は固く禁じる。

3:革命に亀裂をもたらし頓挫させようとするのは愚か者である。そのようになってはならない。

4:質問に対し問い返すなどして時間稼ぎをしてはならない。

5:自分の不道徳や革命論など語ってはならない。

6:電流を受けている間は一切叫ばないこと。

7:何もせず、静かに座って命令を待て。何も命令がなければ静かにしていろ。何か命令を受けたら、何も言わずにすぐにやれ。

8:自分の本当の素性を隠すためにベトナム系移民を口実に使うな。

9:これらの規則が守れなければ何度でも何度でも電流を与える。

10:これらの規則を破った場合には10回の電流か5回の電気ショックを与える。


歴史を知る為に、少しだけ触れます。

以下はトゥール・スレン虐殺博物館の情報としてWikiから抜粋したものです。

興味のある方はご覧ください。


>プノンペンの中心からやや南方に位置するこの場所には、トゥール・スヴァイ・プレイというリセがあった。革命に学問は不要と言う方針を打ち出したクメール・ルージュは、1976年4月頃、無人になったプノンペンの中心に位置するこの学校を、反革命分子、を尋問しその係累を暴くための施設に転用した。

>それ以前にもプノンペン市内にはいくつかの政治犯収容所があった模様で、そこでは厳しい尋問が行われていたようだが、生きては出られぬ収容所ではなかったと言う。収容所がS21(トゥール・スレン虐殺博物館)に集約されると共に、一度収容されたものは生きて出ることはない場へと変貌したが、そのどちらが原因でどちらが結果かは今となっては不明である。また、毛沢東の死によってクメール・ルージュ党中央は中国からの援助が止まるのではないかと危機感を募らせ、それと共に反革命分子の詮索も苛烈の度を増していった。

>革命が成功したのに飢餓が進むのは誰か反革命分子が居るからに違いないという、ポル・ポトを始めとする党中央の被害妄想に、現場の看守は残虐行為で応えた。囚人達はいわゆる拘禁反応によって看守達が欲している答え(「わたしはアメリカ帝国主義の手先でした」「わたしはベトナムのスパイでした」)を言い、その対価として拷問の責め苦からの解放(=処刑)を得た。彼らの遺体は裏手のトゥール・スレン小学校跡に埋められた。

拷問が激化するのと、S21が生きては出られぬ収容所となったのは軌を一にしているが、「一度収容された囚人は有罪と決まっている→拷問し処刑する→S21の拷問と虐殺の実態が外部に漏れぬようにするため、ますます囚人を何が何でも有罪にして処刑しなければならない→さらに拷問が激化する」と言う悪循環に陥っていた点では、ナチス・ドイツの
強制収容所などと通底するものがある。

2年9ヶ月の間に14,000~20,000人が収容されたと言われ、そのうち生還できたのは8人


実際中に入ってみると、その空気は凄かった。

教室に残された虐殺する際に使ったベッド。

床にこべりついた生々しい血痕。















どんな気持ちでこの階段を上ったのか。











校庭には、本来子供たちが遊ぶはずのウンテイや鉄棒までもが虐殺の道具として使われていた。

さすがにちょっと重たすぎて気持ち悪くなってきた。

中の展示には看守だった少年兵や殺された人の顔写真が何枚も何枚も貼られていた。



みんな無表情なのが余計に怖かった。

当時はここプノンペンの人は皆この収容所に入れられて、街中はゴーストタウンと化していたらしい。

今までプノンペンに10日近くいたけど、こんな近くでこんな歴史があったなんて知らなかった。

しかもこれは、わずか30年ほど前の話。

ここプノンペンに来てからずっと気になってた事がやっとこれで判明した。

プノンペン、いやカンボジアにはお年寄りが圧倒的に少ない。

そういう事だったのか。。。


博物館を出ると、入る前と比べて少しだけプノンペンの街が違ってみえた。

入口付近には、たくさんのトゥクトゥクのオヤジが。

オヤジ「オンナ??ハッパ??ガン??」

皆生きるのに必死なんだ。

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